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私たちは人生を生きていくなかで、葛藤という言葉を頻繁に口にしながらもいざその言葉の意味を問いただされると正確にはよくわかっていない。葛藤はまず単独で生じるものではない。必ず自分となんらかの相手が存在するとき、自分とその相手が対立したり衝突したりする場合お互いに葛藤するという。もちろん人それぞれ葛藤する内容やその形態は違っているが、なぜお互いに対立し衝突するのかを知らなければならない。
自分の考え方の基準が異なっているために葛藤を感じるようになるわけであるが、「私の基準とは異なっている」と「私の基準と合わない」ということについて知る必要がある。「違う、異なる」というのは自分の考え方の基準を相手に適用しないで相手の考え方の基準が自分とは違っている、異なっているというのを認識することである。また、「合わない」というのは自分の考え方の基準を相手に適用するとき相手の考え方の基準が自分とは合わないと認識することである。
人間関係において相手に関心をもつようになると自然と自分の考え方の基準を適用するようになる。相手の基準が重要なのではなく自分の基準が適用できるかどうかを考えるようになり、自分の基準に合う、合わないというふうに考える。私たちは相手と自分が違う存在、異なる存在であるのはわかっているが、自分も知らないうちに「自分とは違う」ではなく「自分とは合わない」と考えるようになる。このように自分の考え方の基準と合わないと考えてしまうために葛藤が生じるようになる。
女性はなんらかの相手と葛藤が生じると「自分のことを好きではないのだ」と考えるようになる。また男性はなんらかの相手と葛藤が生じると気分を害する症状、すなわちストレスとして考えるようになる。このとき自分自身の内部に発生する気分や感情によって自分の考え方の基準に合わないと判断し、結局対立し不和(仲たがい)が始まってしまう。これがすなわち葛藤が生じる原因であるが、人々はこのことを認識できずにいるのである。したがって愛する人、また身近な人であればあるほど葛藤の頻度も増えざるをえない。関心をもっていない人であれば対立して衝突するような理由もない。皆さんは誰と最も葛藤するのかを考えてみたらどうか。
夫婦間の葛藤は本当に多いだろう。夫婦の葛藤は性格の違いから生じるように語られることが多いが、性格の違いがバランスよく作用すれば結婚するのであるが、その反対に作用するとなると葛藤が多くなる。
だとしたら、性格の違いというものは良いものなのか、悪いものなのか? 性格の違いというのは人が生きていくうえで幸福を築いていくために必ず必要である。だから葛藤そのものが悪いといっているわけではない。葛藤が生じたとき、相手が「自分を好いていない」と考えるのではなく、正反対に「自分と相手がお互いにとても関心をもっているのだ。もとはといえばお互いの考え方の基準が異なっているだけのことなのに、自分の基準に合わないというふうに考えていたんだ」と考えれば、葛藤が消えていくのである。
また私たちは子供を養育しながら親として自分の考え方の基準を子供に強要してしまったりする。親が考えるときは自分の考え方の基準が正しいのであるが、子供の考え方の基準とは異なっている。ところが親と子がお互いに自分の基準と合っていないというふうに考えると葛藤が生じるようになる。親は子供に関心をもっているため親として自分の考え方の基準を子供に強要する。現在発生している青少年の問題の大半はいろいろな葛藤が原因となっている。愛する人間関係であるべきなのに葛藤の原因が正確にわかっていないがゆえに葛藤を解決できないまま徐々にひどくなっていくのである。
葛藤している相手と死ぬほどに喧嘩するというのはその相手と死ぬほどに愛している関係にあるからである。人間関係において生じるストレスや心の傷は葛藤から始まるが、この葛藤が解決できなければ感情の毒薬となり、葛藤が解決すれば感情の良薬となるのである。だから葛藤という毒薬を解決し、幸福という良薬に転換してヒーリングとしなければならない。
葛藤がないというのは二つの原因がある。まず一つ目はお互い無関心である場合、そして二つ目は二人のうちの一人が表現をせずに感情を圧し殺している場合である。葛藤のない生活、または人生がいいか、でなければ葛藤のある生活、または人生がいいかを考えてみよう。これは皆さんが自ら判断しなければならないが、無関心よりは関心をもって葛藤するほうがいい。ただ葛藤の原因が正確にわかっていないため女性は心の傷を負い、男性はストレスを受けることでお互いに大変な状態になる。
葛藤のない人間関係であるのなら、それはお互いに関心をもっていないということだ。葛藤よりももっと悪いのは無関心である。家族の無関心は青少年の子供たちの家出の原因の一つにもなっている。親があまりにも忙しく叱る時間もないというのはそれだけ親として子供に関心がないということだ。子供を叱らないのは子供に問題がなくしっかり生活しているというのではなく親として子供に関心がないからである。
一例を挙げてみよう。子供が15才、親が45才としてみると、45年生きてきた親の考え方の基準と15年生きてきた子供の考え方の基準が同じわけがない。少し違うなどというものではない、全く違っているといってもいいほど違う。明らかに考え方の基準に差異があるのに、子供が自分で分別しながら親の思いどおりに動いてくれるものと考える親がいる。まさに親が間違った考え方をしているのだ。親は子供に関心をもって子供の考え方の基準が自分のそれと合わないとか、子供の基準は間違っているというのでなく、自分の基準とは違うんだ、異なるんだということを認めてあげられなければならない。
考え方の基準というのはその人の記憶によって形成されるものである。男性であれば男性として生きるなかで経験してきた記憶と形成された考え方、女性であれば女性として生き、そのなかで経験してきた記憶と形成された考え方がある。ところが私たちはそれぞれ全く異なった考え方をもってして相手の考え、または考え方を推論しながら問題が起きはじめるのである。私がAと思ったのだから、相手のほうも明らかにAと考えるだろうと推論してしまう。このときこのような考えが的中する確率はほとんどない。自分の考え方の基準を相手方に主張すれば相手と対立しぶつかり合って葛藤が生じるようになる。
考え方の基準というのは全世界で唯一その人だけがもっているのに相手も自分と同じでなければならないと考えてしまう。夫婦間の葛藤を注意して観察してみると、夫は男性として自分の考え方の基準があり、妻は女性として自分の考え方の基準がある。お互いに負けまい、あるいは譲れないという理由は自分の基準だけが正しく、相手の基準は間違っていると考えてしまうためである。
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